東京オリンピックが開催できるのかどうかもよくわりませんが、ボランティアが不足するというようなニュースが流れています。日本では、ボランティアと言うと無報酬で働く人と理解されがちと思います。
だいぶ前から、「ボランティア」ってなんだかよくわからないと思っていました。たぶんトム・クルーズのベトナム戦争映画(『7月4日に生まれて』、1989)だったと思いますが、トム・クルーズが徴兵されたのか、志願してきたのかを尋ねられる場面があります。字幕には「お前は志願兵か?」と出ているのですが、英語では「お前はボランティアか?」と訊かれていました。この時はじめて、ボランティアというのは、無報酬で働くというところに一番の意味があるのではなくて、自ら志願して働くというところが重要なんだと気が付きました。志願兵だって、当然給料はもらうわけですから。もっとも、ウィキペディアの英語版でvolunteeringを引くと、military volunteeringと混同するなと書いてあります。英語のvolunteerにも、お金のためじゃなく働くという意味があるようです。でも第一義は、自らの自由意思で進んで行うというところにあると思います。
その後、ロバート コールズと言う著名精神科医(著書多数)が書いた『ボランティアという生き方 』(朝日選書)1996という本を読みました。この本の原題は『The Call of Service: A Witness to Idealism』で、実は「ボランティア」の本ではなく「サービス」の本でした。「サービス」も意味が分かりにくいのですが、この場合は社会への奉仕(チャリティ)という意味で、日本の「ボランティア」とほぼ同じ意味と思います(つまり金銭的には無報酬)。
著者の両親は、熱烈にボランティア活動を行う人達であったようで、母親は宗教的な義務(神への奉仕)として、父親は直接的でセンチメンタルじゃない友愛精神で、貧しい人や老人への奉仕活動を行っていたようでした。若いころは、著者もそんな両親への反発もあったようですが、次第に様々な人がなぜボランティア活動に取り組むのかに興味を持つようになり、彼らの活動に取り組む動機が知りたくなったようです。
僕がこの本を読んで心に刻んだのは、ものすごく当たり前のことかもしれないのですが、自分に喜びがなければボランティア活動をしてはいけないし、喜びがある範囲で社会に奉仕していけばいいということです。
僕の父親はテレビで見たフィリピンの子供を大学に行かせるための団体の活動に感激して、その団体に寄付をするようになっていました。そしてそのうち実際にフィリピンに行って、子供たちに会ったりするようになりました。その頃僕は批判的に、「フィリピンに行くお金があるのなら、そのお金も寄付をして、もっとたくさんの子供を大学に行かせてあげればいいじゃないか」と思っていました。でも『ボランティアという生き方 』を読んで、ようやくボランティア精神というものが少し理解できるようになりました。うちの父親は、喜びがある範囲で社会に奉仕していて、素晴らしいじゃないですか。
我々の研究室では、「生態系サービス」というものを研究しています。「生態系サービス」は、「生態系=自然」が我々に奉仕してくれているものやことを意味します。自然は、我々に食料やエネルギーを与えてくれ、環境を調整してくれ、楽しみを与えてくれます。自然は我々に無報酬で、奉仕してくれています。「自然が我々にどれだけ奉仕してくれているのか?」は、たぶん知っておいた方がいいことだと思って研究しています。
ちなみに写真は、拾った木の実を地面に埋めて、木が生えてくれるのを助けてくれたりするリスです。