三重大学 教養教育機構 機構長だより

生きる力

三重大学は教育目標として、4つの力の育成を掲げています。「感じる力」「考える力」「コミュニケーション力」そしてそれらを総合した 「生きる力」です。ただ、「生きる力」ってどんな力なのだろうかとふと考え込んでしまうことがあります。

本学の生物資源学部には「勢水丸」という練習船があります。教養教育でもこれを利用した「環境科学(海に親しむ)」という科目が開講されているのですが、船は通常隣町の松阪港に停泊しているので、他学部の学生や教職員はなかなか目にする機会がありません。先日、私にとっては初めての経験なのですが、この船に乗る機会がありました。松阪港を出港した船は伊勢湾を北上し、左手に津市の三重大学、四日市コンビナート、右手に中部国際空港セントレアを眺めながら、名古屋港に向かいました。

その津と四日市の間の鈴鹿市に白子(しろこ)という港があります。230年ほど前この港から江戸を目指して一隻の船が出航しました。乗組員は船頭大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)以下16名(吉村昭によるとこの他に紀州藩米運搬責任者1名が乗船)。ところが、嵐により船は北太平洋アリューシャン列島のアムチトカ島というところまで流されてしまいます。

光太夫はそこにいたロシア人たちの助けも借りながら、ロシア本土に上陸しただけではなく、極寒のシベリアを横断し、最後には女帝エカテリーナ2世に謁見し、日本への船を出してもらうことに成功します。結局北海道に戻ってきたのは漂流の9年後、光太夫と2名の乗員だけだったと言います。その壮大な物語は次のような小説に描かれ、映画化もされています。

井上靖『おろしや国酔夢譚』(文春文庫)
吉村昭『大黒屋光太夫』(新潮文庫)

当時は江戸時代、光太夫たちは、ロシア語はもちろんのこと、ロシアの事情や文化、習慣の知識もまったくなかったものと思われます。映画ではロシア人が握手のために差し出した手をどうしてよいのかとまどう場面が出てきます。そのような中で光太夫はゼロからロシア語を習得し、その文化も学んで、ついには当時絶大な権力を誇っていたロシアの女帝までも動かすことができたのです。もちろん漂流民がひとりでそのようなことができたとは思えません。そこに至るまでにはさまざまな人の助けがあったことでしょう。しかし、そのような人脈を構築することのできた光太夫の力に感服します。それは光太夫に優れた感性と頭脳、そして卓越したコミュニケーション力があったためなのでしょうが、何よりも生きて日本に帰るという強い思い、いわば「生きようとする力」があったからではないでしょうか。

ところで、私たちの乗った勢水丸は暴風雨に遭うこともなく、伊勢湾をすべるように走り、3時間半後無事名古屋港に接岸しました。光太夫たちが乗っていた神昌丸は千石船だというので、長さ30メートル程度でしょうか。勢水丸はそれよりちょっと大きい全長50メートル余りの船ですが、時には東シナ海まで出かけていくそうです。そして、この船は光太夫たちとまったく同じく、16名のクルーが動かしています。もちろん彼らも三重大学の職員なのですが、暴風雨などに遭遇したときには文字通り命をかけて人と船を守るのでしょう。そのきびきびとした動きを見ていると、光太夫たちの姿と重なり、まさに「生きる力」そのものを見たような気がしました。