三重大学 教養教育機構 機構長だより

悔い改めよ!

 500年前の1031日、ドイツのひとりの修道士が、当時教会が売りさばいていた贖宥状(しょくゆうじょう;いわゆる「免罪符」)に疑問をいだき、ヴィッテンベルクの教会の扉に「95か条の提題」を打ち付けました。これをきっかけとしてヨーロッパ中に宗教改革の波が広がっていきます。マルティン・ルターです。

 私もかつてその教会を訪れたことがあります(写真)。ルターがハンマーをもって紙を打ち付けている姿を想像して、胸が高鳴りました。最高権力に立ち向かって、「おまえこそ悔い改めよ!」と言っているようなもので、そのハンマーの音が町中に鳴り響いたことでしょう。(私もできることなら某省の扉に抗議文を打ち付けてみたい。)しかし、深井知朗『プロテスタンティズム―宗教改革から現代政治まで―』(中公新書)によると、実際に打ち付けたかどうかは疑わしいようで、地区の大司教やその他の人に手紙で送ったということのようです。かなり地味ですが、でもそのおかげで、それが当時発明されたグーテンベルクの印刷術によりあちこちで印刷され、驚くほどの速さで広がって行ったのだそうです。今のインターネットのような感じだったのでしょう。

 ルターがやったことはそれだけではありません。当時聖書はラテン語のものが使われ、ドイツの民衆は自分でそれを読むことはできず、つまり、聖職者の言うことをそのまま信じるしかなかったのです。その結果、お金を払って贖宥状を買い求め、天国行のチケットを手に入れた、と思い込まされていたのです。そこでルターはだれでも読めるように聖書のドイツ語訳を作ります。これがまた印刷術によって広まります。今で言う「情報公開」でしょうか。

 聖書が自分で読めるということはどういうことでしょうか。それまでは聖職者が勝手な解釈をして、こうだ、ということを信じるしかありませんでした。でも、自分で読めるということは自分で解釈できるということです。聖書というのは特別な本ではありますが、そもそも本というのは考える時間を与えてくれるものだと思います。会話では発信者が目の前にいます。ネットでもそれに近いものがあります。しかし、本は発信者と時間的、空間的隔たりがあるからこそある程度冷静に対応できるのではないでしょうか。

 ドイツには現在でもさまざまな方言があります。当時は標準ドイツ語というものはありませんでした。ルターはなるべく多くの人が聖書を読めるようにと共通のドイツ語を使うよう心掛けました。それが標準ドイツ語の基礎となったと言われています。そのおかげで私たちはドイツ中で通用するドイツ語を勉強でき、また、本も読めるわけです。その意味でルターは民衆に「読む」ということ、「考える」ということを与えてくれたと言えるのではないでしょうか。

 いつもここで紹介する教養ワークショップの授業ではひとりひとりが新書を選び出して読み始めています。読んだ部分をグループで毎週報告します。報告することによって、より客観的に見ることができるでしょうし、また、他の人の意見を聞いて、新たな発見にもなるでしょう。

 先回書いたように教養ワークショップは「評判の悪い授業」です。でも私たちはこれを大きな「授業改革」だと思っています。まだ改良すべきところもあるでしょう。こうしたらどうかという積極的な提案があれば検討していきたいと思っています。ただし、機構長室の扉に意見書を打ち付けるのだけは勘弁してください。