三重大学 教養教育機構 機構長だより
2017年7月 記事一覧

役に立たない授業

 1年前相模原市の障害者施設で悲惨な事件が起きました。犯人は「障害者は生きていても無駄」などと述べていたと伝えられています。この犯人はヒトラーの影響を受けたとも言われています。

 今年、私は異文化理解(ドイツ語)2年生の授業で、ホロコーストに関する文章を読みました。強制収容所に入れられながらもかろうじて生き延びたユダヤ人画家Yehuda Baconのインタビューをまとめたものです(Tim Pröse: Jahrhundertzeugen. Die Botschaft der letzten Helden gegen Hitler. München. 2016)Baconは煙突から煙が立ち上る様子を絵にし、その中に父親の顔を描いています。彼は父親の亡くなった正確な時刻を知っているそうです。それは直前まで父親と一緒にいて、父親はガス室へと振り分けられたからです。

 授業ではNHKのドキュメンタリー「それはホロコーストの"リハーサル"だった~障害者虐殺70年目の真実~」の一部も見てもらいました。ナチス・ドイツは600万人以上のユダヤ人を虐殺したとされていますが、その前に30万人の精神や知的に障害のあるドイツ人たちを殺害していたとのことです。当時のナチスのプロパガンダ映画も挿入されていますが、このような者たちのために莫大な予算を使っている、それがあれば健常者の家がどれだけ建てられるのか、というようなナレーションも流れます。利益をもたらさないもの、つまり、役に立たないものを生かしておくのは無駄だ、という発想だったのでしょう。今の社会自体が目先の利益だけに目を奪われており、すぐに「役立たないもの」は廃止して、「役立つもの」に転換せよと言っているような気がします。残念ながら大学もその例外ではありません。

 そもそも「役に立つ」ということはどういうことでしょうか。「役に立つ」という場合、通常「何かの目的のために」または「だれかの利益ために」のような前提で言われていると思います。しばしばそれはそれを言う人の主観的価値判断、あるいはその時代の一時的な価値判断でしかありません。当時のナチスの政策はドイツの発展のために「役立つ」と思われたのでしょうが、今振り返れば、それは「役に立つ」どころか人類にとって大きな不幸になっただけでした。それは同じ時代の日本の政策もそうだったでしょうし、今でも核とミサイルの開発が「役に立つ」と思っている国があります。

 ここで前にも紹介した『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』(岸見一郎・古賀史健著 ダイアモンド社)で、哲人が「誰かの役に立ててこそ、自らの価値を実感できる」と言ったことに対して、青年が「生まれて間もない赤ん坊、そして寝たきりになった老人や病人たちは、生きる価値がないことになってしまう」と反論します。哲人は「『ここに存在している』と言うだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある」のだと答えます。確かに、年老いた夫が妻の介護をしている時、妻は社会にとって何の役にも立っていないかもしれませんが、ひょっとするとそれは夫の生きる力になっているかもしれません。あるいは、生まれたばかりの赤ちゃんはいるだけで周りの人を笑顔にしてくれます。

 教養教育の授業の多くは役に立たないように見えるかもしれません。私は授業に役に立つ、役に立たないという区別はないと思っています。少なくともそれはそう簡単に判断できないことでしょう。もちろんすべての授業に改善の余地がないとは言えませんが、授業の価値はすぐに役立つかどうかではなく、どれだけのものが受けとめてもらえたかでしょう。それをどう役立てていくのか、それは授業を受けた側の課題だと思います。なお、私の授業では最後のアンケートで約7割の人がホロコーストに関心を持つことができたと答えました。私の授業はまだまだだったようですが、たとえ役に立たないと言われてもやり続けないとと思います。