本末転倒であることを馬車を馬の前に置くと英語では表現します。後期の授業を振り返ると、今更ながらこれはあべこべではないかと考えさせられることがありました。
今期初めて担当した形式・内容の授業があり、老化と日々の雑事で衰えつつある脳が活性化されました。ここでも何度か書きましたが、PBL(Problem/Project-based Learning)という形式の授業です。PBLを文字どおりに訳すと、単に「問題/プロジェクトに基づく学習」ですが、この形式の授業ではグループ単位での探究・議論が前提となります。三重大学では早くから医学教育で用いられてきました。例えば、学生達に症例を示し、それに対する診断をグループ単位で検討させます。現在では、医学以外の分野でも広く用いられている教育手法です。欧米の大学には、広範な分野のカリキュラムに体系的に取り入れているところもあるようです。
さて、PBLを担当するにあたって、授業計画の段階から色々と頭を悩まされました。先ず困ったのは対象とする事実です(上記の医学教育の例では症例に相当します)。通常の言語学の授業で取り扱うのは言語事実です。しかし、半期の教養教育の授業で、言語理論に基づき言語事実を分析させるのには相当な困難が伴います。例えば、日本語と英語には以下のような差があります。*はその言語の母語話者が不適格と判断する語順を示します。
(1)
a. a big red apple
b. *a red big apple
(2)
a. 大きい赤いリンゴ
b. 赤い大きいリンゴ
なぜ以上のような差が日英語の形容詞の語順に関して存在するのかを学生達に検討させるためには、言語学の知識が必要です。それもなく、学生達の自主的なグループ学習だけで上記の事実について検討させても、一般常識に基づく的外れな考察にしかならないでしょう。では、関連する言語学の文献を学生達が自主的に読んで分かるかというと、なかなか難しく、別途講義が必要です。ちなみに医学教育では、講義と組み合わせてPBL教育を行なっているようです。体系的なカリキュラムの中でPBLを取り入れるのであれば教育効果が期待できます。では、初年次の教養教育の段階でどのようにPBLを取り入れるのか。分野により事情は異なるように思いますが、やはりある程度の専門知識が前提となるとすると(高等教育なので当たり前か)、教養教育の単独の授業で取り入れるのには相当な工夫が必要です。
そこで今回のPBLでは、通常の言語学の授業では取り扱わないような現実社会の問題に取り組ませました。そのような問題には複数の要因が絡み合っており、仮に何らかの分析ができたとしても、当然不十分なものにしかなりません。それでも、何が不十分なのかを認識した上で検討できればいいと高を括っていましたが、何しろ教員も初めての経験でなかなかうまくいかず学生達に多大な迷惑をかけてしまいました。
もう一点馬車を馬の前に置いているのではないかと思ったことがあります。これまでの経緯もあり、本学の教養教育のPBLでは、最後の授業でパワーポイントを用いた発表を行わせています。しかしこれもよく考えてみると、研究者がスライドを使って口頭発表をする場合には、論文が前提になっていることが殆どです。論文で書いたことをいかにして分かりやすいスライドにするのか、我々は知恵を絞ります。学部や大学院レベルでの論文発表会でも同様です。PBLの発表用のスライドも、レポートに基づいたものであるべきではないかとふと思いました。そうしないと、焦点の定まらない、浅薄な発表になる可能性が高いような気がします。
などと様々なことに思いを巡らすと、手段が目的化していないか改めて考えるきっかけになりました。そうならないためには、特定の学問領域に関して何を教えるべきなのか、目標を具体的に定めた上で、より効果的な教育のためにいかにPBLを活用するのか検討しなければなりません。昨年の3月に東大で開催された教育法に関する国際シンポジウムで、ミネソタ大学の生物学専門の教員が、アクティブラーニング形式の授業でまともに授業ができるようになるまで5年かかったという報告をしていました。あと4年かけて本来の言語学の授業がPBL形式でできるようになるのか。まずは来年度に向けての授業改善から始めてみます。
後期のPBLセミナー院長賞授与式・交流会の様子