前号では減塩の話を書きました。その直後、90歳の元保健師の方と話す機会がありました。毎日こんなものを食べていると言って写真を見せてくれました。毎食写真に撮って記録しているのにも驚きましたが、それよりも驚いたのは一人暮らしなのに、彩も盛り付けも美しい、とても美味しそうな料理の写真が並んでいたことでした。写真の解説をする際にいかに塩分に気をつけて調理しているか話してくれました。改めて自分の食生活も見直さなければと思ったのですが、気がつくと刺身には醤油をたっぷりかけ、サンドイッチには通常の塩分のハムと大量のマヨネーズを挟んで食べてしまいます。なかなか良いことには慣れないものです。
一方で、適量の塩分は人の体にとって欠かせないものです。また、塩は腐敗を防ぐので食料の保存の為に古来から用いられてきました。宗教的にも塩は大切なものとして捉えられているようで、日本では清めのために使われてきました。2018年4月の記事の中で、中東由来の宗教の聖典からぶどう酒と皮袋のたとえ話を引用しましたが、その聖典の中には、我々から塩気がなくなってしまうと用無しになって、捨てられてしまうというたとえ話もあります。この場合の塩は、我々人間の本質的なものとして一般的に解釈できるように思います。最近のことですが、教養教育ひいては大学教育にとっての塩とは何かについて考えさせられることがありました。
10月24日の午後、今年8月に実施した教養教育カレッジの講師を務めていただいた田中晶善先生(三重大学名誉教授)と市民の受講生の古市ゆたさんとの鼎談を行いました。鼎談の内容は別途広報の記事にしますが、田中先生が話されたことで特に印象に残ったことがありました。教養教育は決して大学の初年次に限定されるものではなく、4年間を通して学び、卒業してからも再度大学に戻って学び直すものである。その学びは体系的なものであるといった趣旨のことを述べられました。
高度に専門・細分化された各自の分野を俯瞰し、場合によっては総合的に問題に取り組む為にも、他分野の視点はとても大切です。また、今はやりの社会人の学び直しばかりではなく、市民として学び続けることの意義は今更言うまでもないことかもしれません。そのためには体系化された知を学ぶ場を提供し続けることが大学としての本質(塩)であると再認識させられました。本学の教養教育では、複数の講師で担当するオムニバス形式の講義であっても体系的な内容を提供することを目指しています。
前述の鼎談に戻りますが、本学教育学部前身の三重青年師範学校卒の古市ゆたさんは、戦争の為に十分な学びができなかったと仰っていました。そして8月の暑い中、教養教育カレッジの4日間の集中講義を休むことなく授業に出席されました。ご本人の熱意も当然ありますが、十分に塩気のある教養教育が行われていることの左証であるとも思っています。
10月から後期が始まりました。今学期はPBL形式の授業を初めて担当しています。来年度から教科化される小学校英語の効果について受講生と一緒に検討しています。塩には、ただ塩辛いものからミネラルを豊富に含み味わい豊かなものまで色々ありますが、なるべく美味しい塩を提供できればと思い毎週授業に取り組んでいます。これがなかなか難しい。用無しになって捨てられないようにしなければ。