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鴎外の『舞姫』と教養教育 − 最後にひとこと

2020年03月26日
 

 上野公園の近くに森鴎外が短編小説『舞姫』を書いたとされる場所があります。現在は旅館になっています。東京滞在の折にジョギングでその前を通ることはあるのですが、残念ながら宿泊したことはありません。旅館のホームページで見る限り、敷地内に森鴎外の旧邸や中庭があり風情のあるところの様です。

 その『舞姫』ですが、高校3年生の時に教科書に載っているものを読みました。小説の中に出てくる陰鬱なドイツの描写は、私が初めて見た東ベルリンの光景と重なります。壁が崩壊した直後に偶然ベルリンに行く機会があり、チェックポイント・チャーリー(当時東西ベルリンのパスポートコントロールを行なっていた場所)を通って東側にも行きました。その際に見た、灰色の暗い街の光景です。

 さて、『舞姫』の中で、主人公の太田豊太郎が「わが学問は荒みぬ」と述べる箇所があります。数ヶ月前のブログ記事には、昨年実施した教養教育カレッジの担当講師の田中先生と受講生の古市さんとの鼎談の中で、社会に出ても大学に戻って来て体系的な教育を受けるべきだと田中先生が述べられたことを紹介しました。その記事を目にされた田中先生からメールをいただき、なぜそのように意識するようになったのか教えていただきました。高校時代の国語の先生が、上述の『舞姫』の主人公の述懐を「雑学になってしまった」と解釈されたことを受けて、田中先生ご自身は、体系的、組織的学問が不能になり、雑学に入り込む、とその当時の講義メモに書き残されたというのです。

 話は少し変わりますが、国立大学が法人化する前年に大学の教職員組合の執行部にいました。当時、何度か衆参両院の関係委員会の傍聴席に座ることがあり、法人化法案の採決の場にも立ち会いました。それまでは欠席していた委員(複数)が採決の場に出てきて大きな声で「賛成」と叫んだ、その荒々しい声が今でも耳に残っています。あれから17年の歳月が流れ、この国の高等教育は大きく変化しました。悪い方へばかり向かっているとは言いませんが、体系的・組織的学問ができるような環境が維持されているかといえば、本学のような地方国立大学に関してはかなり厳しいと言わざるを得ません。外圧もあり、実(雑?)学色がより濃くなっています。この院長だよりの中でも何回か書きましたが、教養とは決して雑学ではなく、現代の細分化された専門知識を俯瞰するために、また、さらに一歩進んで総合的に物事を検討するために必要な体系的な知であると確信しています。

 私の研究室のある人文学部校舎はこの4月から改修工事に入ります。4月中旬までに研究室を片付けて一旦出ないといけません。隙間時間に研究室に戻り、大量に溜め込んだものを片付けています。先日も片付けをしながら、三重大学着任当初に指導した学生達が書いたレポート等をパラパラと読んでいました(そんなことしているから片付かないのですが...)。若かったこともあり、膨大な量の課題を与え、今なら卒論に匹敵するようなレポートを書かせていました。それなりの量の資料を読み、レポートや課題をこなしていた当時の学生達と、現在のようにパワーポイントのスライド中心に授業受けている学生達とでは、4年間を通してみると大きな差が生じているのではないか、しばし考え込んでしまいました。大学に入ってきた学生をいかに教育するのか、教養教育と専門教育の双方の立場からの仕組み作りも含めて、今一度考える段階に来ていると強く思います。私のような老兵は消えゆくのみですが、大学を去るまでのあと7年間、できる限りのことをしたいとは思います。

 私の教養教育院長としての任期は3月末で終了します。これまで院長だよりをお読みいただきありがとうございました。4月以降は一教員として、新しい気持ちで授業に臨みたいと書きたいところですが、新型コロナウイルス感染拡大防止対策の一環で授業の開始が遅れるようです。教育研究を立て直すのにしばらくの時間が必要です。その準備期間として考えるようにします。

西側からベルリンの壁を壊す!

馬車を馬の前に置く

2020年02月26日
 

 本末転倒であることを馬車を馬の前に置くと英語では表現します。後期の授業を振り返ると、今更ながらこれはあべこべではないかと考えさせられることがありました。

 今期初めて担当した形式・内容の授業があり、老化と日々の雑事で衰えつつある脳が活性化されました。ここでも何度か書きましたが、PBL(Problem/Project-based Learning)という形式の授業です。PBLを文字どおりに訳すと、単に「問題/プロジェクトに基づく学習」ですが、この形式の授業ではグループ単位での探究・議論が前提となります。三重大学では早くから医学教育で用いられてきました。例えば、学生達に症例を示し、それに対する診断をグループ単位で検討させます。現在では、医学以外の分野でも広く用いられている教育手法です。欧米の大学には、広範な分野のカリキュラムに体系的に取り入れているところもあるようです。

 さて、PBLを担当するにあたって、授業計画の段階から色々と頭を悩まされました。先ず困ったのは対象とする事実です(上記の医学教育の例では症例に相当します)。通常の言語学の授業で取り扱うのは言語事実です。しかし、半期の教養教育の授業で、言語理論に基づき言語事実を分析させるのには相当な困難が伴います。例えば、日本語と英語には以下のような差があります。*はその言語の母語話者が不適格と判断する語順を示します。

(1)
a. a big red apple
b. *a red big apple
(2)
a. 大きい赤いリンゴ
b. 赤い大きいリンゴ

なぜ以上のような差が日英語の形容詞の語順に関して存在するのかを学生達に検討させるためには、言語学の知識が必要です。それもなく、学生達の自主的なグループ学習だけで上記の事実について検討させても、一般常識に基づく的外れな考察にしかならないでしょう。では、関連する言語学の文献を学生達が自主的に読んで分かるかというと、なかなか難しく、別途講義が必要です。ちなみに医学教育では、講義と組み合わせてPBL教育を行なっているようです。体系的なカリキュラムの中でPBLを取り入れるのであれば教育効果が期待できます。では、初年次の教養教育の段階でどのようにPBLを取り入れるのか。分野により事情は異なるように思いますが、やはりある程度の専門知識が前提となるとすると(高等教育なので当たり前か)、教養教育の単独の授業で取り入れるのには相当な工夫が必要です。

 そこで今回のPBLでは、通常の言語学の授業では取り扱わないような現実社会の問題に取り組ませました。そのような問題には複数の要因が絡み合っており、仮に何らかの分析ができたとしても、当然不十分なものにしかなりません。それでも、何が不十分なのかを認識した上で検討できればいいと高を括っていましたが、何しろ教員も初めての経験でなかなかうまくいかず学生達に多大な迷惑をかけてしまいました。

 もう一点馬車を馬の前に置いているのではないかと思ったことがあります。これまでの経緯もあり、本学の教養教育のPBLでは、最後の授業でパワーポイントを用いた発表を行わせています。しかしこれもよく考えてみると、研究者がスライドを使って口頭発表をする場合には、論文が前提になっていることが殆どです。論文で書いたことをいかにして分かりやすいスライドにするのか、我々は知恵を絞ります。学部や大学院レベルでの論文発表会でも同様です。PBLの発表用のスライドも、レポートに基づいたものであるべきではないかとふと思いました。そうしないと、焦点の定まらない、浅薄な発表になる可能性が高いような気がします。

 などと様々なことに思いを巡らすと、手段が目的化していないか改めて考えるきっかけになりました。そうならないためには、特定の学問領域に関して何を教えるべきなのか、目標を具体的に定めた上で、より効果的な教育のためにいかにPBLを活用するのか検討しなければなりません。昨年の3月に東大で開催された教育法に関する国際シンポジウムで、ミネソタ大学の生物学専門の教員が、アクティブラーニング形式の授業でまともに授業ができるようになるまで5年かかったという報告をしていました。あと4年かけて本来の言語学の授業がPBL形式でできるようになるのか。まずは来年度に向けての授業改善から始めてみます。

後期のPBLセミナー院長賞授与式・交流会の様子

自分にしかできないこと、たとえ嫌われても...

2020年01月31日
 

 1月も終わりに近づきつつあります。新年早々風邪をひいてしまい、治ったかと思ったら、今度はひどい胃腸風邪にまでかかってしまい気がついたら1月も中旬を過ぎていました。まったく散々な新しい年の幕開けでしたが、風邪をひくのもいいもので、日々の忙しさの中で忘れていたことに再度気付く機会となりました。世の中の殆どのことは、自分がいなくても回っていくことを改めて認識しました。回っていかないことがあれば、それは(今のところ)自分にしかできない仕事なのですが、かなり限定されます。そう思うと自由で解放された気持ちになり、何か新しいことを始めよう、その為にあれも読みたい、そうだ読み忘れていた論文があった、などと考えていたら風邪が治ってしまい、またもや雑用まみれの日常に戻ってしまいました。Ohimè...

 さて、この院長だよりの中でも何度か話題にしてきた全学必修の「教養ワークショップ」ですが、学期が終わりに近づいています。新書を対象とした書評を書くのが最終目標で、12月の授業最終週に最初の原稿が提出されました。学生達はこの原稿に何度も手を入れ、学期末に最終版を提出します。書き直しの過程では、学生同士による評価・コメント、いわゆるピアレヴューをさせているのですが、人間関係に極端に敏感な昨今の学生気質のせいなのか、なかなか踏み込んだコメントをしてくれません。そこで、書評の一つ一つに教員がコメントをつけるようにしています。また、その時点での(少し辛口の)評価点も出します。学生からは面倒な教員だと思われていること間違いなしです。しかし自分にしかできないことはこれぐらいかなと思い、「嫌われる勇気」をもって今年もコメントしました。

 書評を書く過程で読書記録をつけさせています。読書記録を取る際に重要と思われる内容については、なるべく表等にして論点整理をするように指導しています。もちろん漠然と指示するだけでは、具体的に何をしていいのか分からないと言われそうなので、練習問題を通して、また模範例を示して理解してもらえるように工夫しています。書かれた内容を整理するのには思考が伴い、それなりに時間がかかります。しかしその作業をすると新書の見取り図が出来上がり、要約が書きやすくなるばかりか、対象としている本の問題点(例えば論理的な破綻)も自ずと明らかになります。慣れてくると実際に書き出さなくても頭の中で論点整理ができるようになります。

 OECDの学力調査にPISAというものがあり、毎回結果が発表されるたびに話題になります。昨年発表された結果によると日本の15歳人口の読解力が大幅に低下しているようです。コンピューター上で実施する多肢選択法のテスト形式であることからすると、おそらく、読み解くための力に関する限定的な調査結果でしょう。その結果について一喜一憂するのも問題だとは思いますが、入学してくる学生達の読解力を見る限り、何とかしないといけないと常に感じています。我々の「教養ワークショップ」で行なっている能動的な読解力を育成する教育、つまり論点整理をしつつ要約・批評を書く教育により、アカデミックな読解の為の基礎力が身につくと確信しています。ただし、毎回の課題を真面目にこなせばという条件付きです(どこまでも嫌味な奴やなあ、という学生の声が聞こえてきそうです)。

 教養ワークショップの各クラスから選ばれた優秀書評は、『優秀書評集』として毎年冊子体にして配布しています。ご希望があれば郵送させていただきます。学生達の半年の成果をお読みいただければと思います。

2018年度「教養ワークショップ」優秀書評集

語学に王道はないと思うんだけどなあ...

2019年12月24日
 

気がついたら12月も残すところあと数日です。先日の忘年会の席上、「最近忙しいのですか、院長だより更新されていませんね」と指摘されてしまい、11月は教養教育カレッジの鼎談報告を取りまとめるのが精一杯だったと言い訳したのですが、いやはや自分の処理能力のなさを恥じました。以下の鼎談報告もお読みいただければ幸いです。

・教養教育カレッジ2019の受講生、授業担当教員と教養教育院長の鼎談 「生涯教育へのさらなる充実と拡大に向けて -教養教育カレッジ2019の経験から-」

さて、その忘年会の席上、語学の話題で盛り上がりました。語学は暗記と文法ということでそこにいた年寄り集団は一致したのですが、世の中は違った方向に進んでいます。このところ大学入試の英語民間試験活用の延期のことが取り沙汰されていますが、一方で2020年度から小学校英語が教科化されることについてはさほど話題になりません。

学生時代、小学生帰国子女の英語力保持クラスの担当を依頼され、2年ほど子供達に英語を教えていました。教えると言ってもゲームをしたり、他愛もない会話をしたりといった程度のことです。その際に実感したのが、子供達の英語運用力の低下の速度でした。小学校の低学年で帰国した子供達はあっという間に、高学年であっても英語運用力保持の為の特別な環境がない限り(例えば家庭で良質の英語使用環境が整えられている等)、これも驚くようなスピードで運用力は失われていきます。帰国すれば家庭外の言語使用環境もほぼ日本語ですから、週1回程度の英語力保持クラス程度では到底足りないのです。担当していた子供達の英語圏での滞在期間は短くて3年、もっと長い子供もいました。週日は現地校で学び、土曜日は日本語補習校に行くのが学校生活の典型的なパターンです。ある調査によれば、アメリカの小学校6年間の授業時間数は5,000時間程度ですので、例えば、滞在歴3年間で英語に接している時間数は、授業時間だけでも2,500時間です。これに授業外の学校滞在時間、学校外での様々な活動時間が加わります。そのような環境で英語を習得したとしても、英語を使う必要がない環境に置かれると、英語運用力はみるみるうちに失われていきます。

この後期に担当しているPBL言語学「小学校英語を科学する」では、小学校英語の教科化について、言語習得研究の知見に基づき、予測される効果について取り組んでいます。ちなみに、教科化後の授業時間数は、年間70単位時間(1単位時間=45分)です。教科化の対象となる5年生と6年生の2年間で合計140単位時間です。そもそも小学校の限られた授業時間の中で何を教えるべきなのか、帰国子女に英語を教えた経験に基づくと色々と考えさせられます。

さて、三重大学では、在学生や卒業生を対象にアンケート調査を行なっています。その調査の中で、実践外国語力について自己評価してもらっていますが、結果は惨憺たるもので、学内の会議の席上でも話題になります。とはいえ、前述の帰国子女のケース同様、日常的に外国語を使う必要がない環境に置かれていれば当然の結果でしょう。私の知る限り、在学中に高い外国語運用力を身につけた(数少ない)学生達には具体的な動機付けがあり、相応の努力をしていました。短時間で効率よく外国語を身につけるためには、繰り返しになりますが、やはりそのことばの仕組みを理解した上で、徹底的に暗記する、またその言語を使用する環境に積極的に身を置くしかないと個人的には思います。

教養教育院長に就任してから1年9ヶ月が過ぎようとしていますが、英語を使う機会がめっきり減ってしまい、すぐに単語が出てきません。しかし、考えてみると日本語も同様です。なんだ単なる老化現象か。

イギリスの小学校の参観日

再び塩の話

2019年10月31日
 

前号では減塩の話を書きました。その直後、90歳の元保健師の方と話す機会がありました。毎日こんなものを食べていると言って写真を見せてくれました。毎食写真に撮って記録しているのにも驚きましたが、それよりも驚いたのは一人暮らしなのに、彩も盛り付けも美しい、とても美味しそうな料理の写真が並んでいたことでした。写真の解説をする際にいかに塩分に気をつけて調理しているか話してくれました。改めて自分の食生活も見直さなければと思ったのですが、気がつくと刺身には醤油をたっぷりかけ、サンドイッチには通常の塩分のハムと大量のマヨネーズを挟んで食べてしまいます。なかなか良いことには慣れないものです。

一方で、適量の塩分は人の体にとって欠かせないものです。また、塩は腐敗を防ぐので食料の保存の為に古来から用いられてきました。宗教的にも塩は大切なものとして捉えられているようで、日本では清めのために使われてきました。2018年4月の記事の中で、中東由来の宗教の聖典からぶどう酒と皮袋のたとえ話を引用しましたが、その聖典の中には、我々から塩気がなくなってしまうと用無しになって、捨てられてしまうというたとえ話もあります。この場合の塩は、我々人間の本質的なものとして一般的に解釈できるように思います。最近のことですが、教養教育ひいては大学教育にとっての塩とは何かについて考えさせられることがありました。

10月24日の午後、今年8月に実施した教養教育カレッジの講師を務めていただいた田中晶善先生(三重大学名誉教授)と市民の受講生の古市ゆたさんとの鼎談を行いました。鼎談の内容は別途広報の記事にしますが、田中先生が話されたことで特に印象に残ったことがありました。教養教育は決して大学の初年次に限定されるものではなく、4年間を通して学び、卒業してからも再度大学に戻って学び直すものである。その学びは体系的なものであるといった趣旨のことを述べられました。

高度に専門・細分化された各自の分野を俯瞰し、場合によっては総合的に問題に取り組む為にも、他分野の視点はとても大切です。また、今はやりの社会人の学び直しばかりではなく、市民として学び続けることの意義は今更言うまでもないことかもしれません。そのためには体系化された知を学ぶ場を提供し続けることが大学としての本質(塩)であると再認識させられました。本学の教養教育では、複数の講師で担当するオムニバス形式の講義であっても体系的な内容を提供することを目指しています。

前述の鼎談に戻りますが、本学教育学部前身の三重青年師範学校卒の古市ゆたさんは、戦争の為に十分な学びができなかったと仰っていました。そして8月の暑い中、教養教育カレッジの4日間の集中講義を休むことなく授業に出席されました。ご本人の熱意も当然ありますが、十分に塩気のある教養教育が行われていることの左証であるとも思っています。

10月から後期が始まりました。今学期はPBL形式の授業を初めて担当しています。来年度から教科化される小学校英語の効果について受講生と一緒に検討しています。塩には、ただ塩辛いものからミネラルを豊富に含み味わい豊かなものまで色々ありますが、なるべく美味しい塩を提供できればと思い毎週授業に取り組んでいます。これがなかなか難しい。用無しになって捨てられないようにしなければ。

慣れて良いこと、そうではないこと

2019年09月30日
 

1990年代の話になりますが、イギリスで開催された学会のディナーにスープが出ました。異常に塩辛くとても「食べ」られたものではありませんでした。ほとんど残してしまったように思います。通常出されたものは残さず食べる主義なので、尋常ではない塩分でした。しかし隣に座っていたイギリス人は平然とそのスープを口に運んでいました。イギリス人は多少不快なことがあっても平静を装っていることが多いので、思い切って塩辛くないかと訊いてみたら、そうでもないとのこと。真意は分かりませんでしたが、彼はそのスープを平らげてしまいました。

当時、イギリスの街中の至る所にフィッシュ&チップスショップがありました。フィッシュ&チップスというのは、衣をつけた鱈を揚げたものと太切りフライドポテトのことを指します。地元の人たちは、揚げたてのフィッシュ&チップスにザザっと大量の塩をかけ、それは美味しそうに頬張っていました。ちなみに現在はフィッシュ&チップスショップの代わりにお洒落なヨーロッパ大陸風のカフェが増えました。

さて、この塩分の摂りすぎは深刻な問題だったらしく、イギリスでは国を挙げて大幅な減塩を実施しました。各種食品業界も協力し、例えばパンについては2001年と2011年を比較すると約20%の塩の削減に成功しました。今では日本のパンと比べるとイギリスのパンの塩分が低いので、現地でサンドイッチを買って食べると、薄味だなあと思います。ケチャップの塩分も日本の半分とのことです。

さてこの減塩ですが、毎年少しずつ減らされました。徐々に減塩すると消費者が気付かないという研究結果に基づき、毎年段階を踏んで減塩した結果、混乱なく実施され、その見返りとして医療費の大幅削減に成功しました。

削減といえば、我が国の国立大学の予算も2004年の法人化後、年々削減されており、法人化当時と比べると相当数の教職員が減ったばかりでなく、教育研究に使える予算も削減されています。イギリスでの減塩同様、毎年少しずつ削減されているので、年単位での変化にはあまり気付きませんが、2004年度と比べてみるとかなり減っています。教養教育について言えば、提供する授業の種類と数が減り、そのことでクラスサイズが大きくなっています。イギリスの減塩のように減らすことで良い効果があればいいのですが、教育研究の予算削減は質の低下に直結します。なんとか質を維持し、できるところについては改善するように努めてはいます。

後期から全1年生必修の教養ワークショップが始まります。この授業では新書を読ませ、書評を書かせています。三重大学の教養教育の質の改善の一環として5年前に始まった授業です。学生の中には新書を読んだことがない者が一定数います。また、能動的に読む訓練を受けていない学生もいます。手書きの読書記録をとりながら新書を読むことで、論点整理をする。それを基に要約を書き、さらには批評を書くことができる力の基礎を身につけることがアカデミアの世界ばかりではなく、良識ある市民になるためにも必要な教育だと信じ、痩せ細っていく教養教育にあっても維持・改善を続けていきたいと考えています。

イギリスのフィッシュ&チップスのことを書いたら無性に食べたくなってしまいました。しかし、いざ現地行って食べると衣や付け合わせのソースの味があまりにも薄いので思いっきり塩を振ってしまいます。減塩に慣れてないので仕方ありません。慣れて良いものであってもいきなりは無理のようです。

20190930.jpg慣れた味:日本のサンドイッチ

教養教育の暑い夏

2019年08月30日
 

教養教育院では、8月下旬から9月上旬にかけて、シェフィールド大学から講師を招いて英語特別プログラムの学生を対象とした集中講義と合宿研修を実施しています。夏休み期間中にも拘らず毎年多くの学生が集中講義を受講し、それに続く合宿研修にも参加しています。新カリキュラムがスタートした翌年の2016年から実施していますので今年で4年目になります。本年度はそれに加えて、8月のお盆休み直後に「教養教育カレッジ」を開講しました。教養教育院のホームページに短い実施報告を掲載していますが、本学の元教育担当理事・副学長の3人の名誉教授の先生方に、本学の学生、一般市民、高校生、県内の他大学の学生という幅広い受講生を対象とした集中講義をお願いしました。

教養教育で例年実施している公開講座について駒田学長と話している中で、名誉教授にも講師をお願いしてはどうかといった趣旨の提案がありました。そこで思いついたのがこの3月末に同時に退職された初代から第3代までの教育担当理事に集中講義をお願いし、それを幅広い受講生に受けてもらうということでした。3人の先生方にお願いすればきっと充実した内容の講義になると思ったこととは別に、主に2つの理由がありました。

先ずは、複数講師によるオムニバス形式ではなく、1名の教員による一貫した内容の15回の理系の授業を提供したかったことがあります。現役の理系教員に特有のことのようですが、教育では積み上げ式の知識や技術を教えることが求められており、また、日頃は研究室運営と学生指導に多くの時間が割かれ、半期15回の教養教育の講義を一人で担当するのは難しいといった事情があるようです。名誉教授であれば、講義の準備をする時間もそれなりに確保できるのではないかと考えました。

次に、多様な受講者に対して講義をするのは、担当する講師にとっては大変なことですが、将来の大学像を考えると、高卒後すぐに入学してくる学生だけではなく、飛び級入学の18歳未満の学生やリカレント教育(生涯教育)の受講生などが益々増えることが予想されます。そのこともあり、幅広い受講生を対象とした正規の授業を開講し、将来に向けて備えておきたいということもありました。

計33名の受講生が8月20日〜27日の期間に開講された3つの集中講義に分かれて受講しました。その中には計6名の高校生と3名の市民が含まれていました。高校1年生から90歳の市民が受講している光景は、さながら近未来の大学でした。

酷暑の中、1日4コマ(8:50〜16:10)の授業が4日間続くこともあり、講師や受講生で体調を崩す方が出ないかと心配していましたが、特に大きな問題もなく無事に終了しました。私も少しだけ受講させていただきましたが、どの授業もそれは素晴らしい内容で、教養教育院長の仕事を投げ出して授業に出ようかと思ったぐらいです。今回の集中講義の為に膨大な時間と労力を使って準備をしてくださったことは、少し受講しただけでも十分に伝わってきました。教養教育カレッジ終了後に受講生アンケートを実施しましたが、自分の授業評価では見たこともないような高評価でした。講師の熱意がそのまま評価に反映されたのではないかと思われます。

教養教育院の暑い夏がようやく終わり、あと1ヶ月弱で後期が始まります。私も含め、教員は後期の授業に向けて準備をしているところです。少し涼しくなった後期の教養教育の教室でお待ちしています。

20190830.jpg初代教育担当理事・副学長 山田 康彦名誉教授担当「現代社会理解実践(アーツで社会探究)」の授業風景

当たり前のことの実現に向けて

2019年07月16日
 

「単位パン」が全国の大学で試験期間中に販売されるようになって数年になります。三重大学も例外ではありません。学生達には人気のようで、単位修得はそれなりに(パンを買って食べるよりも?)難しいと思われているようです。単位修得の難易度はともかく、日米の大学生の授業外学修時間数の差に基づき、日本の大学生の勉強しないことが長い間問題視されてきました。特に1年次の学生の授業外学修時間数を比較すると日本の学生の方が短いようです。本学教養教育の授業外学修時間もとても短いことがアンケート結果から分かっています(科目によって差はあります)。なお、授業外学修時間数と授業の満足度は反比例する傾向にあるようです。

本学ではCAP制を導入しています。CAP制というのは一学期で履修できる単位数の上限を定めた制度のことです。そのため以前のように、月から金まで毎日5コマ、といった学生はいなくなりましたが、それでも1日4コマ履修している学生は多いようです。1日4コマ、つまり朝8時50分から夕方16時10分までぶっ通しで授業を受け、その後、部活やアルバイト等もある中で、どのようにして授業外学修時間を確保できるのだろうかとは思います。

一方、アメリカの大学ですが、卒業単位数だけ見ると日本の大学とほぼ同じです。ただし単位数が授業時間数と一致しています。1コマ3単位で、週3時間(実際には150分が多いようです)の授業時間です。これを週2回に分けて行うのが普通で、語学の場合には週3〜4回といった授業もあります。専門にもよりますが、週に5コマ、つまり1学期に15単位分履修するのが標準的です。1日あたりの授業時間数からすると、本学の1年生の半分です。しかし、各授業の課題は相当な量で、それにレポートが加わり、さらに2時間の期末試験があります。大学図書館は24時間開館です。図書館に課題用の指定図書が入っている授業があったりするので、課題に取り組んだり、レポートを書く学生で学期中は賑わっています。

本学では、語学や実習関連の授業は1単位です。教養教育にはこのような授業が多いので、自ずと1日あたりの授業時間数が多くなります。また、就職活動や卒業研究等の理由で、4年間、毎年ほぼ同じ単位数を履修することができず、どうしても低学年で多くの単位数を修得することになってしまいます。そのこともあって各授業担当者には、多くの課題を課すことに躊躇いがあるのかもしれません。

与えられた条件下でできることは何か。体系的なカリキュラムを構築し、各授業の到達目標を具体化・明確化するという当たり前のことを実現することのように思います。現在日本の大学が取り組みつつある科目のナンバリング(番号付与)もその一環です。アメリカ大学の科目にはレベルに応じた番号が振られています。1年生向けであれば100番代、2年生用は200番代といった具合です。さらに、積み上げ式ですので、若い番号の科目の単位を修得していなければ、次のレベルの科目を履修することができません。アメリカとは大学を取り巻く社会状況が異なるので、そのまま適用することはできないとしても、カリキュラム構築の原則として使うことはできるように思っています。そうすると、各科目の到達目標に応じた授業外学習の課題も自ずと決まリます。

三重大学の教養教育では、各科目のガイドラインを昨年度作成しました。来年度の履修案内に掲載する予定です。各科目の下には複数の授業が開講されています。異なった教員による授業である場合もあります。同じ科目名の授業ですので、ガイドラインに沿った内容にするというのがその趣旨です。少しづつではありますが、体系的なカリキュラム構築を目指したいと考えています。そのことが、ひいては授業外学修時間の増加にもつながるのではないかと願っています。

「退屈」はいいことだ!

2019年05月31日
 

ある心理学の研究によると、「退屈」にしている時、我々の脳は何らかの刺激を求め探しているのだそうです。脳がこのような状態の時に、新しいアイデアを思いついたりするようです。よく風呂に入っている時や散歩中に閃いたとか聞きますが、そのような時間も「退屈」な時に含めることができるのかもしれません。

5月23、24日の2日間、大分市で国立大学教養教育実施組織会議が開催されました。2日目の全体会議の中で教養教育カリキュラムの評価について報告しました。そのことについてはまた機会を見つけて記事にしようと思いますが、今回は標題の「退屈」について書くことにします。

会議が開催された会場のホテルから道を挟んだ北側に、大分県立美術館が建っています。正面玄関横には、美術館の英語の略称OPAMの大きなオブジェが置かれていたり、どことなく海外の現代美術館風です。ガラスが多用されているにもかかわらず、大分の地元の木材も使われており、温かみのある建物です。

会議の初日、大分に着いて会議が始まるまでの2時間程、展示作品を鑑賞しました。ちょうど、大分県日田市出身の岩澤重夫の没後10年の特別展示をしていました。岩澤重夫の自然を描いた作品の中でも、特に大分の自然を描いた作品には、特別な思いが込められているようで、山の名前は失念しましたが、大分のある山を描いた絵の前でしばらく立ち止まっていました。絵画の専門家であれば作品の批評やらで頭がいっぱいになり、物思いにふけることなどできないのでしょうが、ど素人の私は、絵の世界に引き込まれ、それこそ何らかの刺激を求め探すことができます。

その前で数分立ち止まっていたかもしれません。特に何か新しいアイデアが浮かんだという訳ではありませんが、とても有意義な「退屈」な時間が過ごせたような気がしました。

教養教育院長室には、前教養教育機構長の知り合いの方からいただいた絵をかけています。ギリシャのミコノス島の住宅街の路地を描いた絵です。ミコノス島は行ったことがありませんが、この絵をじっと眺めていると、これまで訪ねたことがあるギリシャの街の匂いや、地中海の潮の香りがしてくるようです。お腹が空いた時には、ギリシャ料理の匂いまでしてきます。院長室のドアが開いている時に、是非お越しください。お茶はお出しすることはできませんが、しばらく椅子に座って物思いにふけっていただいても一向に構いません。「退屈」な時を過ごしていただければと思います。もしかすると何か良いアイデアが浮かぶかも。

ボーッとしてアイデアが浮かぶのは、それまでに何かについて徹底的に検討しているからです。絡み合っている様々なものの中から新しいものが見えてくるのかもしれません。

大分県立美術館で新しいアイデアが閃くことはなかったと書きましたが、よく考えてみるとこの記事のネタになったので、あの絵の前での数分間の「退屈」な時間にはそれなりに意味があったようです。やはり「退屈」はいいことのようです。

欠かせないものだけど...

2019年04月11日
 

通勤電車の予約、出張の際のホテルや新幹線の予約、国際線の予約から搭乗まですべてスマホで済んでしまいます。さらに、国際線乗り換えの空港に着いて次の便の搭乗口に向かって歩いていると、搭乗口の変更をスマホが教えてくれます。また、日常的なメールのやりとりはもちろんのこと、電車の中で文献をスマホで読み、思いついたことをスマホでメモをとっておき、後で原稿に組み入れる事もあります。とはいえ、そんなメモに限って、後でじっくり考えてみると使えないものが多いのですが...。いずれにせよ、スマホのない生活は考えられません。

授業でもスマホを使うことが多くなりました。インターネット上の情報が膨大なものになり、以前であれば図書館で調べていたものを手元のスマホで瞬時に調べることができます。もちろんインターネット上には信頼性が疑わしい情報が溢れているので、どのような情報源を使うのか吟味する必要はあります。教員によっては情報源や使用目的を特定した上でスマホを授業中に使用させることもあるでしょうし、学生によっては辞書や辞典のアプリを登録しておき、授業中に漢字、用語、外国語の単語をちょっと調べることもあるでしょう。スクリーンに投影した課題等をスマホで写メる学生もいます。大学のMoodle(オンラインの学習管理システム)に重要な情報はアップロードしているので、そんな学生たちにとっては備忘録のようなものなのでしょう。

一方で、大学生のスマホ使用が問題になっています。一つには、スマホを使った試験中の不正行為があります。これは言語道断ですが、次に問題なのは授業中の目的外使用です。さすがにゲームをする学生はいないようですが、ツイッターやLINE等をしている学生は少なからずいます。観察していると、2種類いるようです。先ずは、一応悪いことだと分かりつつこっそりスマホの操作をしている学生(教員側からは全てお見通しなのですが)、次に、まったく悪びれることなく正々堂々とスマホでSNS等に興じている学生です。後者については、何か特別な事情がありそうです。

このような学生の中には、程度の差はあるものの依存症もいるのではないかと疑っています。Smartphone/cell phone addiction(スマホ/携帯電話中毒)といった表現があるように、国外でも大きな問題になっているようです。とにかく自己制御のできない依存症の傾向がある場合には、専門家に相談するのがいいかもしれません。大学の授業に集中できず単位を落としたり、課題等いい加減な取り組みしかできないといった状況であれば尚更です。三重大学内には、なんでも相談室が設置されています。

翻って自分のことを考えてみると、自己制御の利かなくなる深夜のドカ食いは、学生たちのスマホと根っこが同じかもしれません。深夜に帰宅して食べ始めると、とにかくやめられないとまらない。健康に悪いので、最近は飢餓状態になる前に何か食べるようにしています。そうするとドカ食いの回数は激減しました。人それぞれだとは思いますが、スマホ依存にも何か有効な手立てがあるかもしれません。例えばですが、iPhoneにはスクリーンタイム機能があります。どのアプリをどの程度の時間使ったのかが分かります。それを見て1日、さらには1週間を振り返ってみると、時間の使い方を見直すいい機会になるように思います。

三重大学

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